“ ぶらり自然観察人 ”  北総の里山へ! (パート4)

ゴールデンウィークに入り、日本中が連休の行事などに湧きかえっています。私は、と、云えば、相変わらずS町の里山自然観察に励んでおります。
「酒の井碑」と「本佐倉城跡」は町の西側に面しています。「酒の井碑」は街の中で迷子になり、偶然に行き当たったのですが、「本佐倉城跡」は “ 酒々井ふるさとガイドの会 ” 主催の見学会に参加させてもらいました。本日のブログも、また、数日遅れになり、 “ 鯉のぼり ” が大空を泳いでいます。


「酒の井碑(自然石の板碑)」
この町の名を正しく “ しすい ” と、呼べる人は、千葉県人でも少ないようです。私もこの町に越してくるまでは、よく分からず、やむを得ず名を言わなければならない時は、 “ しゅすい ” と発音していました。
町史によると、酒々井の地名の発祥は、古来から湧き水が多いので、 “ 出水 ” と呼ばれていたそうです。鎌倉時代の終り頃から、円福院神宮寺の井戸水で鎮守の神酒を造るようになり、説明板にも書かれている親孝行伝説も加わって、吉祥富貴を込め “ 酒酒井 ”から “ 酒々井 ” と書くようになったと云うことです。いずれにしても、酒が造れるほどの綺麗な湧き水が多く出る所、と、云うことでしょうかねぇ。読み方ですが “ しゅしゅい ” や “ しゅすい ” では舌を噛みそうなので “ しすい ” と呼ぶようになったのでしょうか?。
それから、この板碑がどのように地名に関わるのか?、と、思ったら、室町時代の有力者(本佐倉城主の千葉氏関係者か?)により、円福院神宮寺に寄進されたものだそうです。
彫られた梵字(ぼんじ)は風化していて、分かりにくいのですが、室町時代中期頃の様式を示していると思われるので、時代的にも納得できるのです。
ちなみに、この辺りの水道は地下水?ですし、近くに “ 甲子 ” の銘柄で有名な酒蔵があり、数年前の初夏に家族と訪れた時、たくさん日本酒を買って帰り、冷酒の家族宴会を開いたことを思い出しました。


「酒の井碑」の説明板
終わりの “ 注 ” 以下の文字が小さくて読めませんので、下に補筆しました。
「この碑は下総式板碑といわれ、鎌倉時代から室町時代に盛行した供養碑であります。碑面をよくみると、蓮花と梵字キリーク(阿弥陀如来種子)があります。」
と、書かれています。梵字は古代インドのサンスクリット文字で、中国に入ってから梵字と呼ばれるようになりました。デザイン的で、記号のような文字が組み合わさって、意味を成すようになります。組み合わせ文字1字で、仏の世界の諸仏を表していますが、それを種子(しゅし)と呼んでいます。ちなみに、キリークは4文字が組み合わさっています。


参考写真:代表的な様式の板碑 いずれも石造美術品の完熟期である、鎌倉時代中期頃の名品ですが、下のものは美しい天蓋(てんがい)や月輪(がつりん)まで彫ってあります。それぞれ埼玉県と東京都の寺院にあります。若い頃(約45年前)の下手糞な写真ですが、参考にはなると思います。


「酒の井」の復元



本佐倉城跡」
この城跡の歴史は、町で発行しているガイドブックを要約すると、「室町時代の中頃の享徳3年(1454)に始まった、関東地方の戦乱により、千葉城を捨てた下総守護大名の千葉氏一族が、文明年間(1469〜1486年)に交通の要所である印旛沼に面したこの地に、新たに築城したのがはじまりです。その後、縁戚関係にあった小田原の北条氏傘下になり、天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原城攻略と共に、千葉氏も滅亡しました。それ以来、現代まで手付かずの状態で残ってきましたが、それが幸いし、平成10年9月11日に国の史跡に指定されました。」、と、こんなところでしょうか。
この城跡には、石垣と云うものが全くありません。“ 酒々井ふるさとガイドの会 ” のマンツーマン案内をしてくださった人の説明では、「千葉は石がありませんので、急峻で簡単には登れない崖地の高台に城を築いたのです」、との事でしたが、上総地方には石切り場もありますから、たぶん、下総一帯のことを言われたのだと解釈しました。確かに、私の前居住地の船橋市周辺でも、石垣にするほどの岩や石は見られませんでした。
城跡の規模は東西約700m、南北約800m。面積は約35万平方メートル(と、しか記されていませんが、たぶん、城下町などを含めた面積?)だそうです。
入り口の石標


東山馬場


東山物見台から北印旛沼方面の眺望
昔の印旛沼は、城の直ぐ傍まで広がっていて、視界が開けていたので、敵を防御し易かったようです。京成電鉄線の遥か彼方に見える森は、 “ 房総風土記の丘 ” らしく、天気の良い日には森の上に “ 筑波山 ” が望めるそうです。


東山物見台から西物見址を望む


奥ノ山と倉址に架けられた鯉のぼり
“ こどもの日 ” を迎え、鯉のぼりの心づくし、なか、なか、にくいS町の趣向です。


セッテイ山から虎口を望む
セッテイ山とは古い絵図に描いてあったが、何をしたところか分かっていないそうです。虎口(こぐち)は、城に出入りする門があるところで、侵入する敵を周りから攻撃できるように設計されています。



「リキュウバイ(利休梅)」の花
中国原産の落葉低木です。別名「ウメザキウツギ」とも呼ばれ、明治時代に渡来しました。この花を見たとき、花弁は純白で花芯は緑色、なんと対比の美しい花だろうと思いました。「カラタチ(唐橘)」に似ていますが、木に棘がなく、花も少し違うようです。名は調べれば直ぐに分かるだろうと楽観していたのですが、そう簡単にはいきませんでしたね。



「シャガ(射干)」の花
林の中や林縁の、やや薄暗いところに群生する多年草で、古い時代に中国から渡来したようです。美しい花を咲かせますが、朝に開いて夕方には萎んでしまいます。



「ビロウドツリアブ」



「ニワトリ(ナゴヤコーチン)」
途中、町の中に放し飼いになっているのを撮影しました。最近、このような「ニワトリ」は見られません。