“ ぶらり自然観察人 ”  船橋北部の [ 庚申塚 ( こうしんづか ) ] 小考

天皇誕生日・クリスマス・年末年始の宗教行事が続きます。日本民族は、各宗派・思想をそれほど抵抗無く受け入れるために、主体性が無いと批判されることもありますが、私は国家的な宗教紛争が起こらないので、他国に無い優れた宗教観だと思います。
年末になり、急に宗教心が湧いてきたらしく、自然散策コースの所々に手厚く祀られている、石塔を取り上げてみました。仏教渡来以前の日本は、山・岩・大木などの自然崇拝(信仰)だったので、自然観察と無縁ではなさそうです。
船橋北部周辺には、多数の庚申塚(庚申塔とも云う)があります。その多くは、江戸時代中期以降のものですが、古い時代に建立されたものに、彫刻技術や美術的に優れたものがあります。神奈川県茅ヶ崎市の輪光寺に、日本最古の庚申塚が保存されているそうなので、一度拝観に訪れたいものです。
庚申信仰道教思想を基に、平安時代に貴族社会で始まり、時代と共に神道・仏教思想などが入り混じり、形を変えながら信仰されてきました。江戸時代初期から末期頃には、庶民信仰として全国的に流行したようです。
神道猿田彦神・神使いの猿、仏教の五大明王・四天王などの影響を受けて、江戸時代の初期頃に、青面金剛(しょうめんこんごう)・三猿(さんえん)が生まれました。青面金剛像は仏像のように思われていますが、仏教で云う正式な仏(神)像ではありません。



NO,1
庚申塚(塔)の形は様々ですが、江戸時代中期(延享2年の銘あり)の代表的な例です。
青面金剛像は頭に火焔髪(かえんほつ)を逆立て、顔は忿怒相(ふんぬそう)、目は三目(さんがん)、口から利牙(りが)を剥き出し、腕は六臂(ろっぴ)で合掌と法具(ほうぐ)を持ちます。仏教の五大明王がモデルだと思います。顔の数や目の数が多く、恐ろしい姿ほど、救済力やご利益があると伝えられています。また、下部には神の使いの三猿も彫られています。


三猿は左から「言わざる・聞かざる・見ざる」です。この時代に彫られた三猿は、力強く生き生きとしています。



NO,2 (NO,1と同じ場所に祀られています)
この辺り(船橋北部)の、江戸時代末期(安政5年の銘あり)の代表的な例です。この頃になると、青面金剛像は省略され、文字で表すようになります。まあ、悪く言えば、信仰心の希薄化と経費節減のための手抜き、とも考えられます。それでも、まだ、下部には三猿が彫られ、古式を維持しています。


三猿は左から「聞かざる・見ざる・言わざる」です。全てが横向きに彫られていますが、時代が降ると前例のデザインを表面的に変えようとし、本来の意味が希薄になってきます。



下の3基は、上の2基とは別の場所に祀られています。如何なる理由か分かりませんが、十数基を数える塔の内、前列が新しい時代のもので、江戸時代中期の優れたものは、後列に並べられていました。
明治時代になると、政府により庚申信仰は迷信とされ、道標も兼ねていた街道沿いの庚申塔は、撤去を強いられました。また、現代の高度経済成長の時代には、道路の整備・拡張に伴い、やはり撤去・移転が進められ、この写真のように一箇所に集められました。



NO,3
この中では年代が一番古く、江戸時代中期初頭(正徳3年の銘あり)に建立されました。彫刻技術は未熟ですが、全体的に素朴で親しみが持たれます。火焔髪が三角帽子のようで、ユーモアがあります。


青面金剛像の足元に、天界で悪さをする “ 邪鬼(じゃき) ” が彫られています。仏教の四天王像の影響だと考えられます。歯を食いしばって、じっと堪えているような表情が哀れに見えます。
悪さをする者を “ 天の邪狗(あまのじゃく) ” と云いますが、語源はここからきています。


三猿は左から「言わざる・聞かざる・見ざる」です。全ての猿が正面を向き、彫刻技術は未熟ですが、しっかりと意思表現をしています。さすがに古い時代のものは、目的がはっきりとしています。風化が残念ですが‥‥。



NO,4
この尊像は、江戸時代中期(延享元年の銘あり)に建立されました。この中では2番目に古く、 “ NO,1 ” のものとほぼ同時代の製作です。信仰心に相応して、彫像技術・美的感覚ともに優れ、完成度が高いと考えます。安置場所が悪くて、残念ながら、全体の良い画像が撮れませんでした。



この尊像にも青面金剛像の足元に仰向けになって、もがいている “ 邪鬼 ” が彫られていますが、踏みつけられても立ち上がろうとしています。やはり、弱々しいより、力強い表現の方が芸術的には勝るでしょう。


三猿は左から「言わざる・聞かざる・見ざる」でしょう。両脇の猿が横向きになってきていますが、まだ、力強さを持っています。光線が悪く、したがって、画像も悪いので分かりにくいですが‥‥。



NO,5
この尊像は、江戸時代末期初頭(明和9年の銘あり)に建立されました。この頃には、まだ、青面金剛像が彫られていました。しかし、上の3像に比べると、精神的にも、技術を含めた美的感覚にも、衰えが出始めています。


この “ 邪鬼 ” は正面を向き歯を食いしばっています。何か被害を訴えているようにも見えますが、腕を立てて起き上がろうとしており、まだ、力強さは残っています。


三猿は左から「見ざる・聞かざる・言わざる」です。この尊像全体に、“NO,4”を真似ているように感じますが、猿の順番を変えて、それを隠しているのかも知れません?‥‥。この画像も上と同じ条件で、良くありませんが、まあ、参考にはなるでしょうね?。



参考写真(上総一ノ宮 玉前神社で撮影)

神楽 “ 猿田彦 ” の舞


神使い “ 三猿 ” 役の子ども達



五大明王の内、大威徳明王(醍醐寺 鎌倉時代 昭和11年 飛鳥園発行 日本美術資料より)


四天王の内、広目天多聞天(東大寺法華堂 奈良時代 昭和11年 飛鳥園発行 日本美術資料より)